2017年4月4日火曜日

3/31避難解除となった飯舘村に行ってきました

m(_ _)m 

今回、恥ずかしくも初めての訪問だったので
ショックな光景に、後ろ向きな感情がどうしても隠しきれませんでした。
次回は、飯舘村を応援する立場として
光に焦点を当てた“これから”をみていきたいと思います。

ありのままのを見ていただければと思います。

m(_ _)m

↑こんなに美しい村だったなんて↑

福島第一原発の事故から6年。

原発から40kmにある「飯舘村」は
南相馬市から福島市へと繋ぐ、標高500mの阿武隈高地にあり、
2010年には「日本で最も美しい村」連合に加盟。
家畜と農業で生計が成り立つのどかな村です。

飯館村は、全域避難区域とされ
先日のこと、2017/03/31に避難解除となりました。

国からの住宅支援金の打ち切りで騒がれる中、
避難解除となった飯舘村を見たくて
車を走らせました。


東京時代のカメラマンの師匠が
除染の仕事で、過去飯舘村を担当していたので
師匠にコンタクトをとり、案内をしてもらいました。
師匠の寮がある本宮市から、川俣町〜飯舘村へ。

川俣町から飯舘村に入る少し手前に
気になる神社を見つけました。


小高い丘の上に

何か惹かれて
飯舘村に入る前に、こちらでご挨拶を。
よく見ると、木を切った跡がある。


除染の為に切り落とされてしまったのだな…

本当なら、この神社は木に囲まれていて
こんな風に無防備なお姿ではなかったろうに。


この小さな村を出る時に、20代くらいの男性がバイクを出そうとしていたので
この神社の周りの木はいつ切られたのか?
と尋ねると、
「昔はあったけど、僕も1年位前に帰ってきたのですが、その時は既になかったですね」
と教えてくれました。

師匠と、やっぱりそうか、というアイコンタクトをして、
車を進めます。


さて、飯舘村に入ります。
こちらの幟がお出迎え。






蛍光黄色に黒字の幟「避難指示解除です」カーブに約20本くらい続き
その後の約20本は「おかげさまで」と続きました。

こちらの道路国道399号線は、南相馬と福島市を繋ぐ道路。
小さなのどかな村ですが、交通量はとても多いです。


↑何かを物語っているような看板↑


師匠が飯舘村を除染していた際、
一番最初に除染が強化された場所だったという、村唯一の入浴施設「村民の森 あいの沢」へ向かいました。
「本当にやってるのかなぁ」と不安と期待の中、到着。






↑ここのシンボルとも言える「あいの浮橋」↑

 ↑敷地内にある「宿泊体験館 きこり」↑
↑施設の前 線量は0.252μSv↑

なだらかな山間にある施設です。
自然豊かで、キャンプ場もあります。
ですが、この場所の入り口の線量は、なんと0.7μSv!




美しい自然の中には、危険な見えない物質があります。
これだけ心地よい空間なら、こどもたちは大はしゃぎしてしまうでしょう。





ひとけはほとんど感じられないものの、「村民の森 あいの沢」は運営されていました。
施設に入り、パンフレット等を眺めていると
笑顔の素敵な管理人さんらしき人が話しかけてきました。

「見つかりましたか?」

とても嬉しそう、やさしい笑顔の方でした。

どうやら、宝探しゲーム「コードF-7」のキーワードが隠れている施設のようで、
この「コードF-7」での来場者は多く、昨日(4/1 sat)は特に多い1日約30人の人が訪れたと言います。

ヒントを教えていただくと、管理人さんはどこかえ消えていきました。
そして、作業着を着た別の職員の方に

「見つかりましたか?」

と同じく笑顔で声かけられました。

またヒントをもらい、私たちは飯舘村で「コードF-7」に参加することになりました。


村には汚染物が入ったフレコンの山がいたるところにあります。
農家さんが国に、「仮仮置場」として、土地を貸しているのだそうです。
その農地の広さ、800haのうち300ha強。
フレコンバッグの量、300万個以上…

家の目の前に汚染物の山…

今の飯舘村には当たり前の光景になってしまっていました。。。
道を挟んですぐとなりにある。なんていう光景は本当に多いんですよ!


更に進むと、
避難を強いられ、飯舘村以外で飼うことを許されなかった家族の一員が
悲しみを訴えるように、鳴き叫んでいます。

わたしたちが近づいたからか、
ワンちゃん達の鳴き声がなりやみません…







「ぼくを撫でてよ!」という風に、
網からアタマを何度も出してくるかわいいワンちゃんもいましたが、
あまりにも周辺の子の鳴き声が激しいので
怯んでしまいました。
こちらを睨みつける子も居れば、
震えている子も。

感情をむき出しにしている光景を目の当たりにして
飯舘村に来て、一番、“何かを訴えかけられる場所”でした。

どうにもできないもどかしさで苦しくなりました。
ただ、こちらの運営されているグループがFacebookで、散歩の様子等を知らせてくれていました。ボランティアさんがいらっしゃって、散歩をしてくれているようですが、
師匠曰く、昔はたくさんいたけど…

「福幸の家」Facebookページ




飯舘村の宝探し「コードF-7」のヒントは
先程の「村民の森 あいの沢」の他、「飯舘村役場」と「ふれ愛館」に指定されていました。
まずは、「飯舘村役場」へ。



役場にはたくさんの車が。
役場から若いカップルが出てきました。
なにやら愉しげな雰囲気でした。

ここにきて、やっと
希望を感じることができました。

線量は高いけど
関係なく、戻りたかった人はたくさんいます。
だって、飯舘村は本当に美しく心地よい村ですし、
やっぱり、生まれ育った土地に戻ったらホッとしますもんね。

闘いは始まったばかりだけど、
避難解除となった3/31、
家に座り、お茶を飲んでほっとした人がたくさんいるんだろうなぁ。



上の写真のお地蔵さんの頭を撫でると
飯舘村民の歌が流れます。
子どもの声です。地元の小学生の合唱でしょうか。



この日はこれでもか!というほどの快晴
録音されたこどもたちの声が、青空に響き渡ります。


お彼岸の後だったからか、墓地にはたくさんの花が添えられ、
カラフルであたたかい空気が漂う
やすらぎを感じる場所となっていました。
もしかしたら、飯舘村で一番ほっとしたのがこちらの墓地かもしれません。
ご先祖様が築いたこの村を、小高い丘から村を見守っています。


この写真は、
まさに今の飯舘村を表す1枚だと思います。
後から気づいたのですが、Wikipediaの飯舘村の写真でも、このアングルが使われています。
丘から村と田んぼを見下ろす墓地
その間には、数えきれない程のフレコンバッグ。

本来であれば、この農地にだんだんと人が入り始める頃でしょう。
太陽の日が農地に差し込み、
ご先祖様も、これから青々と実り、黄金に輝く田を見るのを心待ちにしていた頃でしょう。
春の訪れが、より、辛さをかみしめることになるとは。



小さな商店街は、ひとけはなく
風の音だけがすりぬけていました。



-----引用(出典:jiji.com )---------------------------- (古い記事ですが現状がよく分かります)
比曽行政区の除染協議会は、仮々置き場の「3年以内」の撤去を環境省側に要望したが、回答は示されなかった。保管された汚染土は最終的に、政府が福島第1原発近くの双葉町・大熊町に建設する中間貯蔵施設に搬出される計画だ。(2015年記事より)
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飯舘村は黒毛和牛「飯館牛」が特産品だった。
旧牛舎前には、リアルタイム線量計が設置されている。



目を薄めてみると、青々と茂った美しい風景が見えてきます。
復興丁調べによると、帰還意向は33.5%とのこと。


除染は、土面から10cmほどがかき集められフレコンバッグに詰められる。
その上に、
このように飯舘村にある山の土を削り、削り取った土を上に被せるという作業になります。
よって、いたるところの山はこのように削られています。


村の唯一のホームセンターコメリ
駐車場は雑草がはびこり、事故後から変わらずか?
破れた土バッグの山が、何かを物語っています。


ふきのとうが春を知らせている。
フレコンの山に緑のシートが被せられている。
黒いフレコンバッグの山積みの光景よりはまだよいのだろうか。


最後に目にした風景。
フレコンの山の間隣にビニールハウスが建っています。
飯舘村では、土壌を使用しないビニールハウス栽培が既に始まっているようです。



長くなってしまいましたが
最後までお読み頂き
ありがとうございました。


先にも書きましたが、今回悲観的な文章が多くなってしまったことをお詫びいたします。
この美しい村を知ってしまった以上、関わらないで過ごすことはできません。
次回は、もっと飯舘村の「希望」を探しにいってきますね!!!



そして


なぜ私がこのような行動をとったのか。
も説明させていただきますm(_ _)m

それは、今年2月フィンランド旅行の計画を立てている時のこと。
スカンジナビア半島北部、ラップランドの先住民について調べていたときのことです。
先住民のサーメ人はトナカイと暮らしていましたが、
Wikipediaに驚くことが書かれていました。

「チェルノブイリ 原発事故以降、トナカイの汚染が進み、
伝統的な放牧生活を送る事はいっそう難しくなってきている。」

この文章が目に入った時、
どこまでも原発は私を追いかけてくるんだ。

率直にそう感じました。

実際に、サーミの人々の暮らしを見ることはできませんでしたが
現地に行って、トナカイとは切っても切り話せない関係であることを確認し
辛く悲しい気持になりました。

トナカイは、サーミの人々にとって
どれだけ深い絆で繋がれているのだろう。

もう見過ごすことは許されないのだな、
そう深く心に刻まれた想いがしました。


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この日の線量は以下のとおりでした。
約0.2μSv〜0.7 μSvです。(会津若松は0.1μSv前後。東京は約0.03μSv)




原発事故に関しての問題はたくさんあります。
もちろん飯舘村だけじゃない。
でも目に見える一番大きな問題は

「汚染物の処理方法が決まっていないにも関わらず汚染物を産み続けている」

ことではないでしょうか。
今日、こんな記事を見ました。

「関電工のバイオマス発電所に批判噴出、住民提訴も」

東京時代の友人が住む、群馬県赤城山での話(漫画、頭文字Dの舞台ですね)

以下記事引用-------------------------
東京電力のグループ企業、関電工が前橋市で進める木質バイオマス発電計画に対して、周辺住民の反発が強まっている。群馬県内の未利用間伐材などを燃料とする計画だが、住民は「福島原発事故で汚染された木材を燃やすと、放射性物質が環境中に拡散しかねない」と批判。7月には知事を相手取り訴訟も起こした。関電工側の住民説明は不十分で、企業姿勢として誠実でないことも問題をこじらせたようだ。
---------------(出典:alterna)-----

または、


放射能問題は既に薄れている
としか思えない記事です。

汚染物をどうすればいいのか
自分の意見をしっかり持つこと。
意見を持つだけでも十分力となります。
まだ考えが固まっていないとしたら、
もう一度、考えてみませんか?





●Facebookでこのブログについて書いた時にいただいたコメントです。
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復興支援のアートプロジェクトの仕事やってた頃、飯舘には何度もかよって、
山がどんどん削られてくのも、フレコンバッグが増えて行くのも、そんな中コンビニがオープンするのも、もちろん、この商品が置き去りになったままのコメリも、ずっとずっと見てた。トトロみたいに木のトンネルになってるような、青々した自然に囲まれた凄く気持ちのいい山中の道を通ると、毎度車の中なのに線量計が警告音を出すくらい線量が高くてね。これがつい2年〜1年半前の事。
だからまだ結婚したばかりだった私は、いつも飯舘にはほんとに短時間しか滞在させてもらえなかった。風向きによっては少し長く居れたこともあったけども。

県立博物館で11日までやってる展示を是非時間が合えば見て来てほしい。私が携わっていた仕事です。
少しずつ、さちえどんみたいに第二の覚醒を迎える人を目にすると復興支援に携わっていたあの頃、真剣に向き合って行こうと考えたりする人が、想いが、じわじわ土にしみていく水みたいに広がっていきますように、って願ってた事が叶って来た気がして、今回のさちえどんのFB見て勝手に嬉しかった!
ごめん、長くなった!

まーこちゃんありがとう!
飯舘村の美しさを語るのに、
友人の言葉の力は大きいよ
とっても励みになるよ⭐



●以下飯館を知る記事を集めました。
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福島原発事故から6年 一部避難指示解除に専門家「議論を打ち切りたいということ。放射線量だけで議論するからおかしくなる」-Abema TIMES(2017/04/02)